ミツビシ デボネア
(でぼねあ)
グレード・年式 | ロイヤルAMG 1989年 |
エンジン型式 | V型6気筒SOHC |
排気量 | 2972cc |
出力・トルク | 150ps 23.5kg-m |
全長×全幅×全高 | 4860×1725×1425 |
車重 | 1510kg |
新車価格 | 421万円 |
説明
1986年8月登場。初代モデルの登場から実に22年ぶりのモデルチェンジが行われた。この2代目モデルのみ、「デボネアV」の名称となるが「V」には後述するV6エンジンや「VIP」など様々な意味を込めている。
開発担当責任者の垣下プロジェクトマネージャーによれば、前モデルの後継車を作るプロジェクトは、発売の10年ぐらい前から計画しては頓挫という繰り返しだった。当初は当然にFRとして企画されていたが、これがΣと同様のFFに変更されたのは5年ほど前だった。FFで行くことが決定されたため、エンジンはV6横置きしか選択がなく、プロトタイプのV6エンジンが台上で回っているときに、タイムリーにクライスラーから打診が入り、結果的に他社との競合の末に年間45万台をクライスラーへ供給するという大規模な契約ができた。これが、デボネアVが世に出る一番のキッカケとなった。
もう一つのキッカケは、当時三菱と提携関係にあったヒュンダイの「1988年のソウルオリンピックまでに、自国製の高級車が欲しい」という事情であった。現代自動車はソウルオリンピックにおいてオフィシャルスポンサーとなっていたが、VIP向け送迎車に使える高級車を開発するノウハウが無かったことから、ノックダウン生産前提の共同開発を三菱自動車に依頼した。これについては、三菱自動車の社史に「1985年、韓国現代自動車とデボネア共同開発契約締結」とあるとおりだが、時期的に、契約締結時には既にクレイモデルが完成し、設計作業に入っている段階だったことから、共同開発とは言っても実際の開発はほぼ三菱側が行ったと思われる。
要約すると「高級車のモデルチェンジを企図した三菱、高級車を作りたかったヒュンダイ、(アメリカ市場では比較的小型となる)V型6気筒エンジンが欲しかったクライスラー」の利害が一致した結果である。
機構的には、車台は1983年に発売された前輪駆動のギャランΣのプラットフォームをストレッチして使用。従って、上級グレードには、同HTのVR系に装備されていた電子制御サスペンションECS(コイル併用型のエアサス)も用意された。また、エンジンは、当初はV6の2,000cc SOHC(前期105馬力、後期120馬力)、V6の3,000cc SOHC(前期150馬力、後期155馬力)の2種類を搭載。なお、後にハイヤー等への需要に対応する形で、LPG仕様も追加された。ミッションは、マニュアルの設定はなく、ELC4速オートマチックのみである。
ボディサイズは前モデルと同様、当時でいう中型車クラス、つまりは開発に当たって最大のライバルと想定したクラウンやセドリック・グロリアと同じ5ナンバーフルサイズに収められた。先代の後期モデルが3ナンバー専用車になっていたのは、車体寸法は小型車サイズであったが搭載するエンジンが2.6Lのみであったためであり、今回のモデルチェンジで、本来のライバルであったクラウン、セドリック・グロリアと同様、2,000ccと3,000ccのグレード展開となった。なお、3ナンバー専用車について垣下氏は「(このクラスでは)売れ行き自体が5ナンバーに集中する傾向があるので、敢えて3ナンバー専用にするのは、狭い市場を狙ってのことになる」から時期尚早との判断であった。
1987年には150馬力までパワーアップした2,000cc「スーパーチャージャー」(1989年まで)と、1989年からは200馬力(1991年に210馬力にパワーアップ)の3,000ccDOHC24バルブ(1992年まで)が追加された。2,000cc「スーパーチャージャー」車の追加は、当時は3,000ccの「3ナンバー車」の税金が高いことによる節税ハイパワー型としての措置で、競合各社でもこのクラスの2,000cc車にスーパーチャージャー・ターボチャージャーを同様の理由で装備していた例は多い。一方、3LのDOHCは、89年4月の税制改正によって、3Lエンジングレードの需要拡大に対応する必要があったことから、クラウンやルーチェ等に倣って追加されたものである。
ライバルであった、クラウン、セドリック・グロリアとの最大の違いは、開発コストの制約から、セダンボディしか用意できなかった事である。当時、クラウン、セドリック・グロリアは、フォーマルユースをセダンで、パーソナルユースをHTで賄っていたが、デボネアはセダン一つでフォーマル/パーソナル両方の需要を満たす必要があった。そのため、高級パーソナルカーとして好評だった初代ソアラにも採用されていたプレスドアをデザイン上の特徴とし、細部のデザインもパーソナルな雰囲気を狙っていた(バンパーやモール類、サイドのプレスラインなどにも初代ソアラの影響が感じられた)ところが、その一方でフォーマルユースを満たすためには、同時に後席居住性も重視しなければならなかった。そこで、リヤシートのタイヤハウスの出っ張りを排除するため、リヤのオーバーハングを短く(=フロントのオーバーハングを長く)したため、かつての(アグリー)レオーネなどと同様、ダックスフントのような不格好なスタイルとなってしまった。また、三菱の販社では、一般向けに中型車を扱うのは事実上初めてだったことから、セールス氏からも「変わった車に乗りたいというユーザーに売れているだけでは」という懐疑的な声も漏れた。
そのため、売れ行きは知名度が高く実績もある前2車の影に隠れ、芳しいものではなかった。もちろん、三菱としても、拡販策として、当時西ドイツのチューナーであるAMG(後のメルセデスAMG)社に監修を依頼し、外観にエアロキットと専用のアルミホイールを装備したAMGグレードを設定したり、1988年にはイギリスの高級アパレルメーカーに内装を依頼したデボネア・アクアスキュータム、内装をオーナードライバー向けとした「エクシード」シリーズ、更には、1989年の税制改正後には「3000ツーリング(その上級としてスーパーツーリング)」というパーソナルグレードが設定されたが、思うように販売台数は伸びなかった(3000ツーリングは東京渡し235.4万円と、当時としては最も安い3Lセダンであったが、後に自社のディアマンテ3000GDIエスパーダが235万円に更新された)。例えばAMGモデルは、1991年の生産終了までにわずか300台程度しか販売されなかった。
なお、最廉価モデルは発売当初212.5万円(LG、ベンコラAT)からと、前出のライバル2車に比べ高めの価格設定であったが、これは前2車にあったスタンダード及びデラックスに相当する廉価版グレード(更にはMT)が存在しないからである。また、前2車やルーチェに存在した営業車(4気筒、MTのタクシー仕様車)の設定もない。これは、販売目標がそもそも月販800台(当時の中型車クラスの年間販売台数が約20万台だったため、その僅か5%)に過ぎず、当初より所謂法人タクシー需要を考慮していなかったためと考えられる。
なお、バブル期に販売された車らしく、Y31セダンと同様に、リムジンとロングボディ仕様がある。前者は前期モデルをベースに、愛知三菱自動車販売株式会社が企画販売したもので(前後ドアの間で600ミリ延長)、ノーマルのヨーロピアンスタイルと、ランドウトップのアメリカンスタイルの2種がある。一方、後者は後期モデルをベースに、リヤドアを150ミリ延長した3000DOHCロイヤル150で、メーカー自らが企画販売した(ボディ架装メーカー:(株式会社アッスル)。他にも、クラウンセダンなどと同様に、左後ろの屋根が開くブライダル仕様もごく少数生産された。
思い出
若い時分に我が家のマイカーでデボネアがあった家は数少ないかもしれないが、我が家のマイカーであったクルマでした。ちょうど私が免許の教習を受けていた時のマイカー、つまりこの車に「仮免許 練習中」の張り紙を貼って助手席に親父を乗せて練習した車であります。
本心としてはロイヤルAMGであって欲しかったですが、そこまでのマニアックな目はうちの親父には無く、ノーマルグレードのデボネアでした。
デボネアの写真を見るたびに当時の運転練習を思い出します。「左に寄りすぎ!!」「ウインカーが早い!!」等厳しく教えられました。おかげで今や運転が全く苦にならない人間が出来上がりました。
当時からそこそこに分厚いトルクでフワフワのサスペンション、軽すぎるステアリングと飛ばして走る事には到底できないクルマでしたが、当然仮免許の私には飛ばすことなどの余裕はなかったです。
室内もフワフワのシートで広い車内でした。この車を貰って乗るのも良かったのですが、前に書いたGX71マークⅡがどうしても買いたかった私はデボネアを手にすることはなかったのでした。そもそもあのデボネアタバコ臭かったしな・・・。